愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
憎しみは、争いを起し、 愛はすべてのとがをおおう。
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、 人のことを言いふらす者は友を離れさせる。
最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。
できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、
真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
人に望ましいのは、いつくしみ深いことである、 貧しい人は偽りをいう人にまさる。
更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、
互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。
兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。
御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、
彼女は口を開いて知恵を語る、 その舌にはいつくしみの教がある。
手を貧しい者に開き、 乏しい人に手をさしのべる。
争いの初めは水がもれるのに似ている、 それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ。
従うことを拒み、あなたが彼らの中で行われた奇跡を心にとめず、かえってかたくなになり、みずからひとりのかしらを立てて、エジプトの奴隷の生活に帰ろうとしました。しかしあなたは罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かにましまして、彼らを捨てられませんでした。
だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。
あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。
族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばした。しかし、神は彼と共にいまして、
つかさたる者があなたに向かって立腹しても、 あなたの所を離れてはならない。 温順は大いなるとがを和らげるからである。
高ぶりはただ争いを生じる、 勧告をきく者は知恵がある。
彼の道は常に栄え、 あなたのさばきは彼を離れて高く、 彼はそのすべてのあだを口先で吹く。
反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、
偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。
すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、
兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。
それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということである。
そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、
一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。
わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはすまいか。
それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。
ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんでヤコブに言った、「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。